昭和49年06月27日 朝の御理解
御理解 第14節
「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。」
確かに、荒れ地荒れ屋敷と言う物が、神様のお心に適わんと思います。折角自分が手を入れさえすれば立派なお野菜も作られる、花も作られる様な、例えば畑を持っておっても、それを出来ない、それをしないと言う事。出来ないと言う事は仕方ないとしても、それをしないと言う事は、やっぱり神様がお嫌いなさるはずだと思いますね。と同時に、やはり神様がおかげを下さり難い。
そこが綺麗に取り片付けられたり、草を取られたり、耕やされたりして、そこへ種を蒔いたり、苗を植えたりするから、見事に花が咲いたり、お野菜がいわば出来たりするのですから、やはりおかげとはそんなものだと思うんですね。そのおかげが、神様はやる事が出来なさらんのですから、神様のお気障りになる事だと思うんですね。そうでしょうが。ね。荒れ地荒れ屋敷の中に、種も蒔かんでから、どうぞおかげをおかげをと言うて願うのは、だからそれは実におかしいです。道理に合わないです。
それは丁度、種を蒔かずに、草も取らずに、耕しもせずに、どうぞ花を求めたり、お野菜を求めたりするのと同じ事です。神様も、おかげでこんな綺麗な花が咲きました、おかげでこんな野菜が出来ましたと喜べば、神様も喜んで下さる。いいや、神様がそれこそお礼を言わんばかりに喜んで下さる。お前達が草を取ったり、肥料を施したり、苗を植えたり、種を蒔いたりしたから出来たんだ。
いえいえとても私共が例え致しましても、お湿りを頂いたりお日照りを頂いたりしなければ出来る事ではありません。神様のおかげで是が出来ました。と両方からお礼が言い合える様なおかげがね頂けるのです。ですからおかげを願うと言う事は、先ず自分の心の荒れ地荒れ屋敷を片付けたり又は整理をしたり、又は広く深く豊かにしとかなければならないと言う事が解りますね。私はお商売させて頂いとります時に、昔は自転車ばかりでしたから、もうどうも心がいらいらしたり、もやもやしたりする事があります。
けれども商売はやっぱり好きですから、後ろに大きな籠にお酒をいっぱい積んで出かけます。それでお客さんの家に行くまでにはね、心を何とか整えとかなきゃいけません。今の様に金光様と言う信心はしとっても、金光様には中々に行けない様な場合、もう私は一生懸命自転車の上で歌を歌った。それこそ自分の声に聞き惚れる様に、昔は声が良かったんです。一生懸命歌を歌って行くと、擦り合う者が振り向く位に大きな声で歌って行く。そうしてる内に心がね、穏やかになるです。
心がね何か嬉しゅうなって来るのです。お得意さんの家に行った時には、もうにこにこも、こんにちはも気分良く言えれるのです。皆さん体験はないでしょぅか。心にくうっとしたり、イライラモヤモヤしたりしとる時には、お客さんが見えてさあここでにこにこせにゃん時と思うて、妙なにこにこになりますよ。是ではお客さんが来ませんね。商売繁盛しません。もう心の底からいらっしゃいませ、有難う御座いますが言えれる心がね、整理整頓出来とかなければ。
だからある意味ではそういう演出をしてでも、自分の心がね清々しいとか、賑やかにとか豊かにとか、いうなら神様のお心に適う心にならせて頂く事を願い、そして演出してからでも自分の心を治めたり、広げたりしとかなきゃならんと言う事が解ります。昨日午後の奉仕の時、杷木の市川さんがお参りになっとられました。昨日の御理解を頂いて、もう大変感動して、何という素晴らしい御理解。もう来る度んびにそれを思うんですけどと言うてからお届けされるんです。
もう一生を本気で一つ馬鹿と阿呆で過ごさせて貰うぞと一心発起して、いうなら蚊取り線香が燃え尽きる様に、一生をこの事に掛けたら、もう一切がおかげになるという。だから、一心発起しなきゃ駄目なんです。他にいろんな事を覚える事はいらん、もう是一つ。その中に言うならばおかげの条件というか、が出来てくる。その御理解を頂いて、それからここの庭のここの所へ座って、しみじみ言うとられるんです。「合楽と言うところは不思議なところです。
どういう気持ちで参っても、心が豊かになって帰ろうごと無かごとなって、心に色んなあった憂さがみんな払われてしもうて、しかもこうやって有難い庭ども眺めさせて頂いておると、もう本当にここが極楽という感じが致しますね」。と言うてそこでおられましたから、私も立ってからお茶を申しました。それから丁度五六人になりましたから、皆さんと一緒にここでお茶を頂きながら話した事です。市川さんが本当にどういう心の憂さがあっても、合楽におかげ頂いて御理解を頂いて。
そして庭ども拝見さして頂きよると、本当にここが極楽だろうかと思うと同時に、自分の心までも極楽になると言う事です。それに私がお茶を勧めながらまた有難いその日の御理解をもっと深く広くお話をさせて頂いた、これは市川さんお参りしている人達に、例えばこういう風にして極楽は演出するものだよとと言う事を話しました。自分でやっぱり演出しなければいけません。自分が極楽の気分と言う物を味わいたいならばです。
先日も二十五日の研修会の時、文男先生、高橋さんが残っとりました。綾部さんも車が迎えに来るのを待っとられました。私は風呂から上がってお食事の準備が出来とりましたから、一緒にお食事をさせて頂いて、泉水の前でこちらから風が無かったから、扇風機をかけて涼しい風が来る様にして、そしてまあーお料理一つ一つの上にも真心のこめた夕食をさせてもらった訳ですけれども。
例えば上で頂いても良い。けれどもこうやって庭を眺めながら、耳納山を眺めながら、例えばお食事を外ですると言う事を、本当に合楽は極楽だなあと言った様な感じがするだろう。これは、いわば私が極楽をこうやって演出するんです。まあよかたい。ご飯ばいっちょ頂いていかんの。とこうやってひっ散らかした中にですよ、例えばいくらご馳走が出たっちゃ、もう極楽は感じられませんよね。
だから皆さんお食事一つの上にでもです。食卓を囲むと云う上にでもです。矢張りそこに演出しなければいけませんよね。そすと形の上から心の上に、市川さんじゃないけども和んだものが生まれて来る。その和む心がおかげを頂く心なんです。しろしゅしてそげな段じゃなかと言わずにです。矢張り私はそういう時にそういうゆとりをね、持たせてやりたい。あれは信州あたりのお百姓さんで、非常にお茶が流行る。畦くろに腰掛けて一服する時にお茶を点てて、お茶を飲まれると言う様な話を聞いた事があるが、例えば百姓じゃけんそげな事出来んでんなんてん言わずにです。
そうしても一生なら、さあ忙しか忙しかばっかり言うて、もう百姓どもするものじゃなか。ち結局言う事になる訳です。そういう例えば潤いというか、風流というかそういう中に自分の心も穏やかにゆるやかに、有難うなる味わいと言う物を演出する。勿論それは心からそれを頂いて行かなければならん。と同時にそういう外部の方からもです、そういう演出をしなければならない。
今日は私共の恵城が、ちょうど三十日一月経ちましたから、今日は親教会にお礼参拝を、家内と嫁と恵城と三人でさせて頂く事にしとります。あれは帰りにどこにか寄らなければいけない。それで椛目に寄る事にさせてもらう。それでこちらから、何時頃には行くからというて、まあ行き掛けにお赤飯の一つも、あそこに持って行っとくとです。今度椛目ではちゃんと尾頭つきの一つもこしらえて、いうならばお膳の一つも作っておるに違いない。そう言う様な事が、私は是は縁起を担ぐと言う事でなくて、そういう意味での演出だと思うですね。
もう家のお神様にお礼を申し上げときゃよかよかと、もうそげな事はするな、金の掛かる様な事はせんでよかと。それも私はそうは思わなかったけれども、先日見事なお供えを頂いたんです。私の所の紋を入れてね、鯉の滝登りの縫い取りのしてある産着というですかね。見事な紋付を頂きました。それでアイロンかけてから、茶の間に掛けてあるのを見とったらね、そう言う風な、これはやっぱり家だけではいかんと思うた。これはやっぱり親教会にお礼お届けに出さしてもらう。
親先生にも抱いても頂こう。そして帰り掛けに椛目にも寄らせてもろうて、今日は一日そういうお礼の一日がです。そういう演出と共に本当に今日はお礼を申さして頂いたと。帰り掛けには、吉富写真館に寄って写真も一つ撮ってこい。とまあ言おうとまだ言うてはいませんけれども、言おうと思いよる。そういう私はね心配りというか、それがそのまま演出だと思うんです。
なら結婚式。要らん金の様であるけれども、ああいう花嫁、花婿、きらびやかな格好をしてするというのも、やっぱり目出たいという雰囲気が生まれて来る事の為の演出だと思うんです。そういう演出がです。私共の日頃の中に、生活の中になされて行かなければならないと言う事です。だからいわゆる勿論、真でも善でもなからなければなりませんが、いわゆる美と言う事。いわゆる美的な感覚と言う物も、やはり養って行かなければならないと言う事。自分の心がそれでも和まない時にです。
自分自身のいうならば真の欠けておる事、善が欠けておる事を悟らせてもろうて、改めて行く所から、心は愈々豊かに又は美しゅうなって参ります。昨日の様な御理解などを本気で一心発起して、そうあろうと言う事に例えば努めさせて頂いたら、心は自ずと有難くなって来るでしょう。いや有難いものが与えられるでしょう。そう言う事がです私は有難い。荒れ地荒れ屋敷草を取ったり耕したりそして花の苗を植えたり、野菜を植えたりさしてもらうと言う事は、是は今日の御理解から言うとです。
言うならば演出であります。その事もせずして、ただ荒れ地荒れ屋敷にです。ここから花を求める様な信心野菜を求める様な信心、それでは幾ら地団駄踏んでも本当のおかげを頂けない筈だと言う事を解からせて頂いて、心の内を改める事が第一であると言う様にです。心の荒れ地荒れ屋敷を草を取ったり、耕したりさして貰えれる演出をさせてもらわにゃいけません。
そして喜びの種を蒔かして頂くから喜びの花が咲いたり、喜びの実りになって来るのです。ただ神様とは拝むだけでよかごたる思い方は金光様の信心ではありません。それは拝むだけでもね、実際おかげは頂けんかというとおかげは頂けます。お取次を頂けばおかげは頂けますけども、それではね気分の良いおかげではないです。神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。成程お嫌いなさるはずだと言う事を一つ解からにゃいけん。荒れ地荒れ屋敷にです。私共がおかげを求める様な信心をしてはいないか。
先ずは耕さなければ、先ずは雑草を取らなければならない。そして喜びの種を蒔かまければならない。そこに神様おかげを頂きました。と言う事になり、神様もまたいやお前達が草を取ったり、肥料を施したりしたからこんな綺麗な花が咲いたんだ、おかげになったんだという。いわゆる神様と私共がお礼の言い合いのできる世界を、私は合楽だと思う。そういう合楽の世界がです。お互いの家庭に日々頂けて来る様な工夫、いわば今度は演出と言う様な言葉で今日は聞いて頂きました。
どうぞ。